第7日(2017.3.11) 六合 → 見付
 
  金谷

東海道に戻り24番目の金谷宿に入る。大井川を挟んで京側の宿場町だが、島田と比べると遺構はあまり見られないので足早に。後で調べると大名が泊まる本陣は3件もあったのだとか。

           

      

金谷駅手前のガードをくぐる直前に金谷の一里塚跡。金谷の駅裏から次第に傾斜がきつくなり、車道から徒歩道に代わったところからの数百メートルは石畳区間となり往時を偲ばせる。

     

この辺りから左側に茶畑が出現してくるのだが、静岡のお茶栽培は明治維新後の徳川武士や川越し人足の食い扶持として開墾、本格化したというから当時と風景は違っていたはず。

     

坂の途中、左側には六角堂に収まったお地蔵様、その名も「すべらず地蔵」。石畳のおかげで坂道も滑らないという意味であろうが、落語に関わるものとしてはご利益頂戴いたしたくお参りさせていただく。

     

坂を上り切ったところで車道と合流した。茶畑の間をしばらく歩くと右側に諏訪原城跡の標識、武田勝頼の命で築城された国の指定史跡とのことだが、建造物は残っておらず空堀ほかを無料見学。

     

上った分を再び石畳で下る。途中、ここから161mが江戸時代の「本物の」石畳との看板、確かにそれまで歩いて来た復元の石畳と比べると、そこの間だけ石の配置が荒れているのが妙にリアルであった。坂を下りきると間(あい)の宿、菊川。それまでは栄えた宿場町だったらしいが、家康がたまたま宿場町に指定しなかったために、原則旅人を宿泊させるのが禁止されたことは悲運だった。急坂難所が続くが前後の金谷宿と日坂宿の間が2里にも満たなかったためであろうか。「原則禁止」というのは、隣の金谷宿が長期の川止めなどによりいっぱいになり、仕方なく泊めるのはやむなしということだったらしい。

     

せっかく上って下ったというのに、またすぐにきつい上りが始まる。有名な小夜の中山峠へ向けローギアで進む。途中2回ほど呼吸を整えながら何とか上りきると遥か遠くの山肌に巨大な「茶」の文字が。粟ヶ岳という山で、ヒノキを植樹したものなのだとか。最初は松の木を植えたのが松くい虫にやられてしまったので後年植え替えたとあった。

     

地元のハイキングコースにもなっていたり、車でも上っていけるらしく頂上には各放送局の電波塔があったりと地元ではなかなか有名な山らしい。新幹線からも見えるとあったがちっとも知らなかった。 
                           
                                    <つづく>