第6日(2017.2.26) 江尻 → 六合
 
  江尻 〜 府中 

 
前回も使った夜行バスを静岡で下車、5時の始発に乗り、今度は清水で下車。ところが前回たどり着いた清水駅前の交差点は旧東海道のルートから外れていたことに後で気づく。旧道はそれより約1km手前で右に入っていくはずなのに、三保松原を急ぐあまりルートミスに気が付かなかったのだ。とはいえタラレバだが、もしも正規のルートを進んでいたら遠回りになってしまい、最終の渡船に間に合わなかった可能性も高く、あれはあれで良しとする。とは言っても気づいてしまったからには、そのままというわけにはいかないので約1km戻ってそこから再開。

    

18番目の江尻宿を歩く。駿河の国ではその先の府中に次ぐ規模だったらしい。もとは武田信玄が築いた江尻城の城下町で、現在、城の跡地は神社になっている。かつての宿場町も商店街として栄えている。

    

江尻から次の府中宿まではJRとローカルの静鉄の線路との交差を幾度も繰り返す。途中左側に立派な鳥居の草薙神社がある。日本武尊の命を狙うため、原野一帯に火を放たれたが、剣を抜いて草を薙ぎ払い難を逃れた逸話がある。

    

更に進むと草薙運動公園にある野球場では、日米野球において、沢村栄治vsベーブルースなどの名勝負が行われたことを記念して両者の銅像が立っている。

    

19番目の府中宿に入る。大御所、徳川家康のお膝元、駿府城の城下町、静岡のことだ。今川の人質だった時代から勘定すると人生の1/3を駿府で暮らしたことになる。遺言により久能山に祭られたのちはそれまでのお付きであった家臣どもが大挙して江戸へ移動してしまった。そのせいで廓が閑古鳥になってしまい、遊女たちも後を追いかけて行ったのが吉原(元吉原)の起源なのだ。「五人廻し」の客で三っつんときから大門をくぐり、犬の糞までかぎ分けるほどの吉原エキスパートの啖呵の中でも、元和三年三月に庄司甚内というお節介野郎がお上に願ってできたと言っている。

    

   

静岡市内を流れる安倍川、今は当然橋で渡るが、当時は大井川同様川越しだった。その橋の手前にあるのが名物の安倍川餅屋で3軒並ぶうちの一番手前の店で一服させていただいた。「船徳」で、「まともにお天道さんが照り付けてんだよ。汗はかくし埃を浴びるだろ、何のことはない人間の安倍川(餅)ができちゃうン」というくらい、一般的にはきな粉餅だが、あんことわさび醤油のラインナップもあり、ここではわさび醤油のをいただいた。

    

落語で府中が出てくるのは「城木屋」。もともとは三題噺で、「評判の娘」、「伊勢のつぼやの煙草入れ」、「東海道五十三次」という題からできた話。丈八の白状するセリフが品川から順番に宿場を織り込んだ言い立てになり、最後が府中。この府中の地名が明治になって静岡に変わった経緯も「城木屋」のサゲと同じく「不忠」の地口から。