第1日(2017.1.7) 日本橋 → 平塚
 
  <その3> 程ヶ谷(保土ヶ谷) 

 
4番目の宿場、程ヶ谷(保土ヶ谷)に入る。

    


何しろ地図を頼りに進むから、次は右折と書いてあれば右、左折なら左とあらかじめ道路を渡っておくわけだが、いきなり反対側にチェックポイントが出てきても交通の激しい通りだと急には渡れない。大名の泊まる本陣跡を通り過ぎたことに後になって気付くも、足の痛みで引き戻すのがつい億劫になってしまう。なお、程ヶ谷の地名由来については諸説あるが、その形状、湿地帯であったことから「ほと」からきているというのが有力。ここではこの程度の説明に留めておきたい。

    


箱根駅伝でも登場する権太坂にかかってくる。駅伝でもなかなかの難所らしいが、旧道のルートは尾根道をフルに上ることになる。途中に看板が立っており、この坂の命名由来を読むとこれがまたおもしろい。旅人がおじいさんに坂の名前を尋ねたところ、自分の名前と勘違いして「権太」と答えたためとか。とはいえ、ちゃんと保土ヶ谷区の住所地名になっているところに住民の誇りを感じる。
権太坂を上った分、焼餅坂と品濃坂と二段階で下る。品濃坂を下ったところで品濃の一里塚にたどり着く。




1里(約4km)ごとに街道の両側を小高く盛り上げてそこに木を植えたものだが、ここは江戸から9里目、ほぼ当時のままの形で残っているとのこと。植える木は目印のほか、夏場は日陰にもなるようにと榎か松が多かった。なんでも(確か)家康が一里塚の造成を指示したとき「ええ木を植えよ」と言ったのを「エノキ」と聞き間違えたためとか。品濃坂を下る手前で片側3車線の環状2号を陸橋で渡るが、ここで目の前に富士山と相州大山が飛び込んできた。





ここにも茶屋があったらしく明治初期の写真が看板になっていた。富士山と大山を望みながら一服する絶好の場所だったに違いない。山崎製パン、ポーラ化粧品と右側に工場を見ながら進むと大山道への分岐。

    

    


江戸っ子の物見遊山と信心を兼ねたツアーに大山講があって、往路は今の246号に沿った大山街道、復路はちょっと寄り道して、ここか藤沢に合流する大山道で東海道に出て江戸へ戻るのが一般的だったらしく「大山詣り」でも帰りに神奈川の宿で起こった喧嘩がもとで騒動が持ち上がる。