第1日(2017.1.7) 日本橋 → 平塚
 
  <その2> 川崎 〜 神奈川 


鈴ヶ森刑場の跡地を横切る。北の小塚原に対し、南のお仕置き場、江戸白井権八のほか、八百屋お七もここで処刑されたそうな。
 

多摩川の橋を渡ると神奈川県、かつては六郷の渡しというのがあって、大師の杵では空海上人にフラれた名主の娘おもよがここで身を投げたという設定になっている。

 

ほどなく2番目の川崎宿に入る。あまり大きな宿場ではなかったようだが、「かわさき宿交流館」という施設が建っていたほか、ドリンクの自販機も「川崎宿仕様」になっており雰囲気は感じられた。
 
  
 
 

生麦事件発生現場を通過、島津家の大名行列の前を英国人が横切ったことで無礼討ちにされた事件。鈴ヶ森と同様、写真に撮るのははばかられたが記念と割り切る。このあたりから東の空が白々としてきた。


 
 
新子安駅近くにあるトマトケチャップ発祥の地碑を通過し、


 
 
このあたりから足の「異変」に気づく。足が痛い。筋肉痛ではなく足の裏、かれこれ7時間くらい歩き詰めだが、山登りでは普通のこと、違いは何かというとただ一つ、スニーカーを履いているということ。ここまで差が大きくなるとは、だてに値が高いわけではないと、トレッキングシューズの効果の高さを思い知らされる。
 
  

神奈川宿は東海道3番目、日米修好通商条約で無理やりに開港させられたことでも知られる。このころ横浜という地名は東海道から離れたローカルな港だったが、外国人に宿場町のコアなところまで入り込まれることを嫌った幕府が、神奈川イコール横浜と主張し、実際には横浜しか開港しなかったというエピソードをブラタモリでやってたっけ。
 
 
 
落語では「宿屋の仇討」、「夜前は相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分・・・」というから、登場人物である万事世話九朗なる侍は今回とは逆コースから来たというわけだ。うるさい町人3人を柱に縛り付け、自分は熟睡できたのだから、翌日は意気揚々と江戸へ入ったことと想像できる。

落語というのは町人の娯楽だから、「たがや」、「禁酒番屋」、「やかんなめ」のように町人が侍をやり込める痛快さを描くものがあるかと思えば、この宿屋の仇討のほかにも、「二番煎じ」、「孝行糖」など侍に軍配の上がる話も意外と多い。そういえば、たがやだって最初はたがやの首の方が飛ぶ展開だったみたい。それならサゲが「たーがやー」となっても納得がいく。
  

 

宿場の中心だったところを過ぎると東海道で初めての坂道を上る。当時は海岸線がすぐそばまで来ているところから、風光明媚な場所だったらしく、坂の途中にいくつもの茶屋があったことが歌川広重の絵でもわかる。その一つに田中屋という当時から営業する料亭があるが、坂本龍馬の妻であったおりょうが働いていたとの看板が立っていた。

坂を上った分緩やかに下るとまっすぐ続く道が商店街になっているが、早朝のためひっそりとしている。


  

天王町駅前に松屋を発見、朝から牛丼でエネルギーチャージ。夜通し歩いているので体内時計もおかしくなっていると思われる。