落語の効用



@ 笑いは健康の源

「笑う門には福来たる」ということわざがあるように、笑いがあるというのは幸福である証拠。人生の一番の幸福は健康なことである。最近は、医学的にも笑いが健康に不可欠でガンの抑止にも有効であるという発表をしているし、実験でも証明されている。特に落語というのは聴く人の想像力に負うところが大きいので、落語を聴いて笑えるということは、それだけ脳を活性化させていることになる。早い話が頭の体操にもなっているということであり、笑うことによってストレスを発散できる。

逆に、落語を演じるということも、健康には多大な貢献をしてくれている。まず、ネタを覚えるのに記憶力が必要だし、演じるについても、お客さんのイマジネーションを増大させるように工夫しなければいけない。その上、大きな声を出すことは健康によいのはもちろんのこと、演者にとっても大きなストレスの発散になる。ましてや、噺が受けた時には何よりのストレス発散である。

ただし、噺が受けなかった時は、逆にストレスになることもあるが・・・。


A 歴史・国語・地理に強くなる

落語の背景は歴史そのものであるし、落語を聴いているだけでも歴史に強くなれる。たまには眉唾ものの歴史も登場するが、それはそれで正しい歴史観を知るいい機会となりうる。また、落語の「サゲ」(「オチ」ともいう)には、ことわざや古歌なんかが使われることも多く、言葉づかいや言い回し、揶揄なども含めて国語力が養われることは間違いない。そして、落語にはいわゆる「旅ネタ」という噺も多く、名所案内も盛りだくさんで、地理の勉強にもなる。昔の庶民は簡単に旅行が出来なかったこともあり、そういった落語の旅ネタなんかで旅行気分を味わっていたのかもしれない。

是非とも、学校の授業の科目に「落語」を入れよう!!

でも、「落語・社会・算数…」→「らくごしゃかいさんすう…」
これをワープロ変換すると →「落伍者解散数…?」


B 教訓を楽しく学ぶ

落語の題材は、いろいろな職業や年齢や立場の人達の人生における失敗が元になっているものが多い。人の失敗を笑っているのだが、それは自分自身に対する戒めでもある。落語の主人公を自分に置き換えてみるとよくわかる。しかし、ただ単に「あれはダメこれもダメ」と説教するのではなく、そういった失敗を笑い飛ばすことにより、それを笑いながら勉強しているようなものなのだ。教訓と言えば教訓なのだが、そういった堅苦しい意味合いではなく、常識として知っておかねばならない実生活におけるマナーを自然と吸収できるようになっている。
  
また、落語にお酒の噺が多いのは、それだけ、世の中にお酒で失敗する人が多いということであるし、その他にウソをついたり、人をだまそうとして失敗する噺が多いのも戒め的な意味があるのだろう。

とはいうものの、私は未だにお酒の上での失敗をやらかしてしまう・・・
(わかっちゃいるけど、やめられねぇ〜♪)


C 文化・伝統を継承・体験する
 
落語の歴史は300年以上になる。何世代にもわたって伝承され、洗練されてきた芸能でもある。この落語を学び、落語を演ずるということは、日本の伝統文化を後世に残すという大きな意義がある(そんなに大層に構えることもないが…)。古典芸能の中でも、特に落語は楽しみながら日本の伝統的な文化に触れることができるものだ。

余談になるが、同じ形態の芸能のように見える落語と講談について私の考えを記しておきたい。この二つの芸は、見かけは同じなのだが、根本的にはルーツが違うような気がする。実のところ、落語のような講談もあるし、講談のような落語も存在するので、その境界線は曖昧かもしれない。でも、落語は究極の一人芝居であるのに対し、講談は究極のニュース解説と言える。落語はあくまで主観的な視点に立った芸であり、講談は客観的な視点にたった芸だと思う。同じ一席でも、落語は「演じる」のだが、講談は「読む」と言う。基本的に心構えが違うのだ。

これまた余談になるが、落語を演じることにより、普段着ることのない(特に男性は着る機会がほとんどないかも知れない)日本文化の代表である着物を着ることができる。着物というものは、意外と機能的な面もあり、冬は暖かく、夏は涼しく過ごせるようになっている。

とは言っても、日常生活を一日中、着物で押し通す勇気はない・・・。

  
D 日本の風俗・慣習を学ぶ

落語は日本の昔の風俗・慣習や人々の考え方を知るのにも格好の題材だ。落語には、いわゆる、士農工商それぞれの世界が丁寧に織り込まれている。だから、落語に接することにより、今は廃れてしまった古き良き時代の日本を知ることができる。昔の人々の生活感が満ちあふれており、過去の世界にタイムスリップしたかのような楽しみがある。

商家における年末年始の過ごし方や庶民の大晦日の借金の逃れ方、芸者遊びの仕方、おいらん道中の歩き方、駕籠の担ぎ方、奉行所におけるお白砂での裁き方・裁かれ方、禅問答のやり方、手水の使い方などなどが生き生きと描かれているので、当時の人間の生き様や考え方等が手に取るようにわかる。また、そういった知識をある程度理解していることによって、より一層、落語を楽しむことができるようになる。

ただし、現代の生活にはほとんど役立たないが・・・。


E 度胸がつく!

実際に高座で落語を演じるようになって、人前でもあまり緊張しなくなった。元来が引っ込み思案で、人前に出るとすぐに上がってしまい、赤面して何も言えないことも多かったが、落語を演るようになってからはそういうことがほとんどなくなってしまった。確かに、落語を演り出した頃は、途中で頭の中が真っ白になったりということもしばしばあったが、今では、三百人近いお客さんの前でも上がることはない。

でも、高座であまりリラックスしすぎると、演技が疎かになってしまうこともある。やはり、演者としては、適度の緊張感は必要かも・・・。


F 隠し芸になる

落語を覚えていると、立派な隠し芸のひとつとなる。落語が出来ると言うと意外と一目置かれたりするものである。落語は身近な芸能なので、聴いて楽しむ人は多いのだが、実際に自分で演じようとする人は少ない。落語をそのまま一席演るのは場所的に難しい場合もあるが、簡単な小咄を仕入れておけば、結構、あちらこちらで重宝するものだ。

だが、宴たけなわの酒の席では、いくら勧められても落語は拒否した方がよい。集中力が持続しない場所での落語が、悲惨な目に遭うのは明らかだ・・・。


G 町の人気者になれる

地元での寄席を長い間続けていると、町中で声をかけられることがよくある。おかげさまで、毎月の定例会は大入満員で、あちらこちらの出前寄席も行っているし、テレビのニュースなんかにもたまに出してもらっている。地元でも認知度がかなり上がってきたようで、芸名で声をかけていただく。まんざら悪い気はしない。むしろ嬉しいものである。

ただし、顔を知られてくると、町中でうかつなマネはできない・・・。


H ボランティアの声がかかる

知名度が上がるのに伴い、出前寄席の依頼も増えている。町内会や各種施設に出向いて落語をする。特に、自治会の老人会や老人介護施設等での需要が多い。いわゆるボランティアである。落語を演じることによって、お年寄りなどが楽しんでいただき、社会の役に立てるのだからこんなにいいことはないだろう。

とは言うものの、落語を演じる方も楽しんでいるのだから、こちらがボランティアを受けているのかも知れない・・・。


I 人の輪が広がる

前々回(その8)、前回(その9)のように、あちらこちらから声がかかるのとは別に、同好の士のつながりも出来てくる。本来、落語という楽しい(楽しむ)芸の愛好者ばかりなので、結構、話が合うこともあり、そういった輪が全国に広がりつつある。うちの会だけでも、大阪(高槻)で発祥した落語の愛好会(噺の会じゅげむ)が、今では、岡山、福岡(小倉)、神戸にそれぞれ拠点が出来たくらいで、他の落語の会とも交流がある。

でも、個性の強い人物も多いので、逆に大きく反目し合うこともあったりするが・・・。


J 防犯に役立つ

落語には、やたらと泥棒などの犯罪者が多く登場する。だから、噺を聴いているだけでも犯罪の手口や犯罪者の心理状態がわかるので、必ず防犯に役立つはずである。また、自分の家の中でネタ繰り(落語の稽古)をすれば、その家に人がいることを外部にアピールできるので、空き巣ねらいなどの泥棒は近寄ってこない!?

だが、あまり大きな声で稽古してると、近所(家の中でも?)迷惑になるのでご注意を・・・。


K キャッチセールスに捕まらない

落語のネタ繰りは当然のことながら、歩きながらやることも多い。噺によってはテンポもいい調子になるし、第一、通勤なんかの途中でも簡単に出来る。しかし、知らない人からすると怪しげな人物に見えるに違いない。おかげで、ブツブツと一人でしゃべりながら歩いていると、人混みの中でもキャッチセールスなんかは絶対に近寄って来ることはない。

そのかわり、若い女性も近寄って来ないが・・・。 


L 混んでいる電車でも座れる

前回(その12)と同様に、落語のネタ繰りは電車などの中でやることも多い。公共の乗り物の中では特に声を出したり身振り手振りは控えるようにしているが、時には、噺に夢中になり、ついつい上下(かみしも:左右を向いて人物描写をすること)を振ったり、声を出してしまったりすることもある。気が付くと周りに人がいなくなっていたりもする。かくして、楽々と座席を確保できたのであった。

昔、故・枝雀師匠(当時は小米)が電車の中でネタ繰りをしているのを見かけたことがあるが、実際、周りに人はいなくなっていた。

ただし、駅員に通報されないように、ネタ繰りもほどほどにしておこう・・・。


M 他の伝承(古典)芸能を気軽に楽しめる

落語の中には、芝居(歌舞伎)の一場面や浄瑠璃や講釈なんかの一節がよく登場する。普段は、なかなかそういった芸能に触れることができなくとも、落語を聴いていおれば結構楽しめるし、知識を得ることができる。噺家の方も、それぞれの芸能を身につけてから演じることも多く、内容や仕草については多少はデフォルメされているものの、あながち間違ってはいない。

とは言うものの、そういった落語以外の古典芸能を真剣に楽しもうと思うのであれば、それなりの場所でプロの技を堪能すべきなのだが・・・。


N 究極の暇つぶし?
 
落語は、<落語の効用(その4)>で述べたように、一人芝居の最終的な形態の芸である。暇で暇で時間を持てあましており、テレビもなくて、ラジオもなくて、本なんかもなくて、何もすることがないというような時でも、落語を覚えていると、一人でその異次元の世界にトリップすることできる。聴く人がいなくても大丈夫でなのである。究極の暇つぶしだ。

これは私の実体験なのだが、突然の交通事故で入院して、しばらく集中治療室で寝たきりだったことがある。頭の中はハッキリしているのに、体が動かないので何も出来ず、テレビもラジオもないし、本も読めない状態だったので、仕方なく落語のネタ繰りをしていたのだが、おかげで、暇を持てあますこともなく、ずいぶんと精神的にも救われたような気がする。

でも、他に聴いて笑ってくれる人がいてくれればなおさらのことよい。落語は大した道具もいらず、場所もあまり選ばないし、健康にもいいし、勉強にもなるし、人にも楽しんでもらえるという究極の趣味と言えるかも知れない(これまでの「落語の効用」@〜Mを参照)。

ただ、ずっと座布団に座りっぱなしの芸なので足腰は少し弱くなるかも知れない・・・。


   
※ ブログ「司之助の木戸御免」で、2008年8月20日から9月11日まで掲載した記事です。

      
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