眞琴家笑吉の畿内歴史探訪

<高槻編・・私の住んでいる高槻市の中からいくつかの史跡を紹介します。>

  第三回・・芥川城址

高槻には、高槻城以外にもいろんな城郭があり、これからご紹介する芥川城址も

その一つであります。

芥川の地は、JR高槻の西北に位置し、西国街道沿いの宿場町となっていました。

芥川城がその名を知られるようになったのは、応仁の乱(応仁元年(1467年)足利

将軍家の継嗣問題と共に管領家の畠山氏・斯波氏の相続争いに山名持豊と細川勝元が戦

さを展開し、これが全国規模の戦乱に広がった戦国時代の幕開けを告げる乱)に遡ります。

その当時は、芥川氏一族の居城でありましたが、まもなく芥川氏が没落し、代って能勢

頼則が城主となりましたが、芥川城が摂津の要衝地として重要な役割を果し、京・西国

への交通の便が良い為、芥川城主は、めまぐるしく移り代わる事となる。

そしてこの城にあって畿内を制したのが三好長慶であります。

しかし、こうした戦乱の時代も織田信長の出現により天下統一の機運が高まり、芥川城

も永禄11年(1569年)9月下旬、織田信長の入城によって攻防の歴史に終止符が

うたれ、摂津支配を和田惟政・伊丹親興・池田勝正に任せると共に和田惟政に芥川城を              

与えました。

後に和田惟政は、居城を高槻城へ移した為に芥川城は廃城となりました。

現在、芥川城祉の存在をめぐっては二つの説があります。

ひとつは、通称三好山に山城が築かれていたとの説(現在の芥川から西北約4キロの所

にあって、本丸・二の丸・追手ヶ谷という地字があり、城郭遺構が残っている)ともう

一つは、芥川の宿から北側の殿の内が城跡だと言われ、「芥川城址」の石碑が立ってい

ます。

一度高槻に来られる機会があれば是非寄って見てください。

 

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