● 落語の歴史(上) 皆さん、こんにちは。悠々亭一光です。 実は私、昨年度に某大学の通信教育で落語の歴史の勉強をしました。現代の落語といえば大衆芸能であり、プロの噺家さんが「落語」を聞きたいという人を集めて、寄席やホールで有料で語るというのが王道です。しかし、その昔「落語」なんていうものはなく、「噺家」という商売もありませんでした。それでは落語はどのように生まれ、発展してきたのでしょう? 今回上中下の三回に分けて、落語の歴史を考えたいと思います。 平安・鎌倉時代 落語の始まりは滑稽話(こっけいばなし)にあるとされています。平安・鎌倉時代、僧侶は仏教普及に努めていました。しかし当時の民衆はその日を生きることに精一杯で、おもしろくもない僧侶の説教を聞く者は少なかったようです。そこで民衆を飽きさせず興味を引くために、一部の僧侶(説法師)は説教の中に笑える滑稽話を盛り込むようになりました。この滑稽話が現在の落語の元になったと考えられています。 平安時代や鎌倉時代に編纂された「今昔物語」や「宇治拾遺物語」には多数の滑稽話が含まれています。800〜900年も昔の書物の中に、現代の落語に通ずるものがあることは全く驚きです。 たとえば、今昔物語集(1120年頃)の巻二十八第三十八話の「信濃の守藤原陳忠、御坂に落ち入りたる語」は、谷底に落ちること、強欲であることを庶民が笑う点は落語の「愛宕山」や「始末の極意」に通じるところがあるのです。 平安・鎌倉時代も現代も同じようなところで笑えることで、案外人間は進歩していないと思えます。 |
● 落語の歴史(中) 皆さん、こんにちは。悠々亭一光です。 前回に引き続き落語はどのように生まれ、発展してきたのかの中盤になります。前回、鎌倉時代に仏教の普及活動の道具として落語の元になる滑稽話が生まれたという話をしました。その後の落語はどうなったのでしょう? 戦国時代 ご存じのようにこの時代は戦国大名が割拠して、日本中で争いが絶えなかった時代です。戦国大名は生き残るための知略の相談やストレスを発散するために、多くの御伽衆を抱えていました。御伽衆は主(あるじ)に書物の講釈をしたり、話しの相手をする職業です。 豊臣秀吉も多くの御伽衆をかかえており、中でも曽呂利新左エ門(そろりしんざえもん)が有名ですが、他に安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という人もいました。策伝は浄土宗の高僧でしたが、説法と同時に語る滑稽話の集大成である「醒睡笑」8冊(1623年頃)などを著しました。 醒睡笑において、仏教の説法の添え物としてではなく、滑稽話だけを集めて書物にまとめたことにより、策伝は落語の祖とされています。 醒睡笑には古典落語の「平林」、「子ほめ」、「寝床」、「てれすこ」の元となった噺が含まれています。醒睡笑2巻には、ほぼ現代の「平林」そのままの記載があり、これが400年前の著作であることに驚きを禁じ得ません。 出典)文化デジタルライブラリー 独立行政法人 日本芸術文化振興会 大衆芸能編 寄席 噺本体系本文データベース 国文学研究資料館 醒睡笑125頁 |
● 落語の歴史(下) 皆さん、こんにちは。悠々亭一光です。 最終回です。いよいよ江戸時代に入ります。 江戸時代 1700年前後になりますと、それまでの僧侶や御伽衆による、いわゆる仏教の「販売促進ツール」としての滑稽話ではなく、お金を取って滑稽話を町人に語ることを職業とする者が現れます。ここらが現代の大衆演芸としての落語の成立ということになります。 この時期は農業生産・商品経済の発展や貨幣流通の増大(元禄の金銀貨幣の改鋳)などによる経済成長期であり、町人層が台頭してきたことが、大衆演芸発展の背景になります。 演者のネタ集である著作物も出回るようになってきます。 日蓮宗の談義僧(だんぎそう;説教をおもしろく聞かせる僧)から還俗した、初代露の五郎兵衛は京都の四条河原や北野天満宮にて辻噺を始め、上方落語の祖と言われるようになりました。著作には「軽口露がはなし」等があります。 米沢彦八は大坂の生玉神社等で、小屋内で噺や物真似を演じました。1703年に「軽口御前男」を著し、同時代の露の五郎兵衛にも触れています。 鹿野武左衛門は江戸で座敷仕方噺(ざしきしかたばなし:しぐさを取り入れた座敷噺の始祖ではないかと言われています)を始め、「鹿野左衛門口伝はなし」等を残しています。この伝統が現代まで引き継がれ、同じ落語でも大阪では見台を使う大道芸、東京では見台を使わない座敷芸として発達しました。 江戸落語中興の祖といわれる烏亭焉馬は「噺の会」を主催して多くの後継者を育てるとともに、公募した噺本である「喜美談語」等を著しました。文化人が公募した噺を素人が語ったこれ都が記録に残っており、これが素人落語会の始まりと言えるかもしれません。 江戸落語は、文化・文政から天保初期(1804-40年)に隆盛を極めました。当時寄席は200軒もあったそうですが、水野忠邦の天保の改革により15軒まで激減、その後安政期(1854-60年)には170軒に戻すなど、流行や行政の方針により盛衰を繰り返しています。 第二次世界大戦で落語家は数十人にまで減り、絶滅の危機に瀕しました。その後、口演の場を寄席からラジオやTV、各種ホールや寺社、インターネットなどに広げることにより復活を果たし、現在では1000名を超えるプロの落語家がおり、過飽和期を迎えていると言われています。 出典)文化デジタルライブラリー 独立行政法人 日本芸術文化振興会 大衆芸能編 寄席JR東日本 東京感動線 2019.11 038 他 以上、三回にわたって簡単に落語の歴史を振り返ってみました。「噺の会じゅげむ」はゆるい素人落語家集団として使命?を果たすべく、代表の寿亭司之助を中心に精進いたします。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。 一同、礼! |
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